仏教、浄土真宗を学ぶ jho123's blog

なんてことない!見方を変えれば、楽(幸せ)になれる。そういう視点から、ブッダの説く仏教や親鸞の説く浄土真宗を考えで見たいと!

ima、読書中です。  「ブッダの人と思想」

第5章 この身は泡沫のごとし


ブッダは、人間のありよう(存在)を、

「一つは、人間は苦なる存在であること」、
「二つには、欲望、執着、妄執の存在であること」、
「三つには、常なきもの、無常なる存在であること」

とした。(スッタニバータ580,574―575,577、740、805-806、756)

苦とは、「思い通りにならないこと」(スッタニバータ739、588、805、律蔵)

妄執の源(人間を突き動かす妄執着は)⇒心の奥に渦巻くどす黒い欲望(スッタニバータ945、774)

「無明」とは、我執、妄執の根源で、深い内省と禅定によって洞察される人間存在の根本(南伝大蔵経15-1、15-3)
無明に覆われ、妄執に縛られて流転輪廻している今日ただ今⇒妄執を克服して執着を離れよ(スッタニバータ767,771、サンユッタ。ニカーヤ、ダンマバタ334,335)



<まとめ>
人間存在の内側には妄執、渇愛が潜んでいる。これは人間の根本的生存欲であり、その根は「無明」に根づいている。
この無明は、カルマの闇であって、はじめもなく際限もない。
この無明から妄執、執着、生存、生老病死の苦が生起する。これが12因縁のパターンである。


人は不浄の革袋。その不浄なる実情をしっかりと把握し、執着を離れよ(スッタニバータ194-200,205-206)

こうした妄執にとらわれた人間存在の実情から、その解放の方法をどう説いたか?
人々は自我が存在するものと思っています。しかし、この自我は妄執によって仮構されたものであります。
従って仮に存在するものです。自我とは仮に存在するものと見破って、自我への執着を離れよ。
そうすれば、世界は「空」なりと観ることができる。それが死を乗り越えることである。(スッタニバータ1049-1051、1084-1086、1092-1094、1120-1121、1123、1119)

無常の道理⇒すべてのも実在であると思い込むことによって、無常は苦しみとなります。
固定的、常住不変のものはこの世に塵ほどのものさへないと見極めて生きること
これが最も積極的な生き方になる。(サンユッタ・ニカーヤ、スッタニバータ804、ダンマバタ170)