仏教、浄土真宗を学ぶ jho123's blog

なんてことない!見方を変えれば、楽(幸せ)になれる。そういう視点から、ブッダの説く仏教や親鸞の説く浄土真宗を考えで見たいと!

形而上哲学の超越-毒矢の譬え-

形而上哲学の超越-毒矢の譬え-

哲学青年マールクンヤはブッダに問うた。
「世界は常住であるか無常であるか、時間的に局限されているかいないか、我々および世界は空間的に有限であるか無限であるか、身体と霊魂は一つであるか別々であるか、人間は死後も存在するかしないか。」

これに対し、ブッダは沈黙をもって答えた。
 あるとき、これを不満に思ったマールクンヤは、しびれをきらせてブッダに言った。
「これを最後と思っておたずねします。ぜひともお答えいただきたい」

ブッダはついに答えて言った。
「ある人が毒矢に射られて苦しんでいるとしよう。かれの親友、親族などはかれのために医者を迎えにやるであろう。しかし矢にあたったその当人が、「わたしを射た者が、王族であるか、バラモンであるか、庶民であるか、奴隷であるかを知らない間は、この矢を抜き取ってはならない。またその者の姓や名を知らない間は、抜き取ってはならない・・・・・・・・・」と語ったとする。それでは、この人は、(生きている間に)こういうことを知り得ないから、やがて死んでしまうであろう。それと同様に、もしもある人が「尊師がわたしのために<世界は常住であるか、常住ならざるものであるか>などということについて、いずれか一方に断定して説いてくれない間は、わたしは尊師のもので清らかな行いを実修しないであろう。」と語ったとしよう。しからば、修行を完成した師はそのことを説かれないのであるから、そこでその人は毒がまわって死んでしまうであろう。」
ブッダは続けて言った。
「それ故にここにわたくしがいずれとも断定して説かなかったことは、断定して説かなかったこととして了解せよ。またわたくしが断定して説いたことは、断定して説いたこととして了解せよ。・・・・・・・・・・・・何故にわたくしはこのことをいずれとも断定して説かなかったのか。何となれば、このことは目的にかなわず、清らかな修行の基礎とならず、世俗的なものを厭い離れること、欲情から離れること、煩悩を制し滅すること、心の平安、すぐれた英知、正しい覚り、安らぎのためにならないからである。しからば、わたくしは何を断定して説いたのであるか。「これは苦しみである」「これは苦しみの起こる原因である」「これは苦しみの消滅である」「これは苦しみの消滅に導く道である」ということを、わたくしは断定して説いたのである。何故にわたくしはこのことを断定して説いたのであるか。これは目的にかない、清らかな修行の基礎となり、世俗的なものを厭い離れること、欲情から離れること、煩悩を制し滅すること、心の平安、すぐれた英知、正しい覚り、安らぎのためになるものである。それ故にわたくしはこれを断定して説いたのである。」

マールクンヤ青年のおかげで、このような形而上学を超えるためのブッダの教えを知ることができます。はじめはこの手の難問をどう処理すべきか、ブッダ自身にもわからなかったのでありましょう。そしてブッダのことですから、それを深く深く突き詰めて考えようとしたはずです。それゆえにブッダは沈黙を保って答えなかったのでしょう。そして気づきます。この手の問いは答えの出ぬものであると。なぜならなにかしら答えを出してみても、すぐにそれに対する疑問が生じてしまうからです。この疑問の連鎖は苦しみであります。無限に連鎖しているのですから、たとえ200年かけて考えたところで答えはでません。それまでに死んでしまいます。それよりも、知的欲求を超克して安楽を得るほうが幸福なのです。)
      以上、http://www.geocities.jp/p3ejp/buddha_anecdote.htmlから