仏教、浄土真宗を学ぶ jho123's blog

なんてことない!見方を変えれば、楽(幸せ)になれる。そういう視点から、ブッダの説く仏教や親鸞の説く浄土真宗を考えで見たいと!

ブッダの仏教をたどってみると!

仏教の大元(=ブッダの仏教)をたどってみると

「仏教=宗教」という色合いはそれほど強くはないのです。

①仏教は実践で生き方のようです。なによりも“生き方”。
人生の苦しみ・迷いから覚める(解脱)ための因縁を説いて人間の生きるべき道を明らかにしたものである。
②人生の問題に対処する治療法です。
③熱心に実践すること、常に意識的であること、この2つが仏教です。
④仏教は神を持たない宗教です。
⑤全き平安と幸福に至るために、冥想を用いる宗教だ。
⑥「習い性」(=生活の中での訓練の持続)を身につける。
⑦仏教は、本質的に自己を問い続ける宗教です。
⑧仏教は自分への応用問題である。⇒仏教を学び、真摯に自分の生き方に重ね合わせる
⑨仏教は、ブッダが説いた教えを実践し、自らも悟りを得て仏となることを目的とした教えです。
⑩仏教は、釈迦の教えであり、人生の苦しみ・迷いから覚める(解脱)ための因縁を説いて人間の生きるべき道を明らかにしたものであり
ます。


 釈迦の仏教の最大の特徴
念仏を称えれば救われるといったような、外の力(神秘的な力)に救いを求める宗教ではなく、
「自分の道は自分で開け」という厳しい教え。救済を求める祈りの宗教ではなく、自分で進む自己鍛錬の道。

動画観察メモ;「ブッダの生涯(BBS)1/5~5/5」

(1/5)キリスト誕生500年前、ブッダの出家⇒ブッダは、永遠の至福「涅槃」を求め、苦難の旅に出た。
平和の象徴、憐れみの象徴、非暴力の象徴です。
それはブッダであった。(ダライ・ダマの言葉)
究極の英知を求め、すべてを捨てた。
彼は心の闇の回廊を旅し、悪魔(心の奥底に住む煩悩など)と向き合った。
全き平安と幸福に至るために、冥想を用いる宗教だ。
仏教は、瞑想を用いる宗教で、究極の真実を知るための力であり、努力なのです。

仏教は他の宗教のような至高神を持たず、ブッダ”目覚めたるもの”を師と仰ぐだけだ。
仏教は宗教というより、人生の問題に対処する治療法というべきである。

(2/5)ブッダは、自然界の仕組みに興味を持った。
こうした人間存在の根本的事実がもたらす大きな衝撃を、私たちが正面からとらえ解決を図るべきだということです。
人間存在の根本的事実⇒生・老・病・死

(3/5)修行僧は世の楽しみを捨て、現実に向き合うことで、存在自体がもつ苦悩を解決しようとしたのです。ブッダは物事のはかなさを初めて知ったのです。
存在がもつ痛みを解決すべく、現実と向き合う。
ブッダは、心の深層を知ることを求めた。

(4/5)肉体的執着が消え、幸福感に満ちた瞑想こそ、悟りへの道なのではないかと彼は考えたのでしょう。
そしてある時、楽器を調音する人を観た。
弦が緩ければ弾けず、張りすぎれば切れてしまう。その中間で調音するのだ。
これを観た彼は、大いなる気づきを得た。
探していた調和、悟りの境地は中道にあったのだ。
肉体を無視するのでも、力ずくで操るのでもなく、よく意識することで、彼はこの境地、中道を目指しました。
悟りとは、内なる平安、調和である。

神聖な4つの真理 四諦
①人生にある苦を認めること。
②苦の原因たる願望を知ること。
③願望を癒せると知ること。
④その病を癒し、悟り、涅槃を得る方法である。
究極には、切望、無知、強欲、憎しみ、幻想を離れ、転生の因を立つことであり、悟りを得たものは、死後、生を選択しない自由を得られるということです。

ブッダはさらに、悟りへの段階として、道徳、冥想、智慧を説いた。
彼は苦から解放される道に、残りの人生を捧げた。
熱心に実践すること、常に意識的であること、この2つが仏教です。

(5/5)悟りへの道は、心の集中と戒律から始まる。
道徳、冥想、英知、つまり、殺さず、盗まず、性的不品行をせぬこと、虚言せぬこと、酒類や酔わせるもの耽らぬことです。
これが仏陀が最初の教団で提唱した生き方だ。
人生の問題に対する答えを見つけ、いかに生きるかを知るべく、妻子を捨て、独り、旅に出たことは、仏教徒に支持されました。
いかに生きるべきかを知ることは、いかなる財産より、愛するものといることより、大切でした。

ブッダは瞬きする一瞬に悟りを得ました。
仏教は神を持たない宗教です。
ニルバーナ(涅槃)は私たち一人ひとりの内にあると説く宗教です。

悟りの階段(テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造)

瞑想の本来の目的はなんでしょう?「
(瞑想として精神安定しか求めない現代人」と、「冥想修業の完成者であるブッダ以降の聖人たちが達した境地」の違いは?)

ブッダは、悟りの体験はもとより悟るまでの心の準備や悟ったあとの心の変化など詳しく分析した。
悟りには4つの段階があると分類し、それぞれの特徴を原始仏典で詳しく教えています。

悟りの内容は初期経典の中だけに。(悟りとは何なのか、悟ったら人はどう変わるのか、が初期経典に残されたブッダの教えを学べば解ります。悟りの内容は仏教以外のどんな宗教書や哲学書読んでも、悟りとは何かと知ることは不可能です。)



悟りの道への第一歩は
初期経典に書かれた悟りの内容を、知識として学ぶことです。

悟りの4段階⇒預流果、一来果、不還果、阿羅漢果
五つを断つべし、五つを捨てるべし、その上、五つを修めるべし。五つの縛りを超えたら、比丘は「暴流を超えた」といわれる。(南伝12)
※「五つ」とは、基本煩悩(貪・愼・痴)+慢、見という自我意識
 


最初の悟り預流果に悟る道⇒「随法行」と「随信行」

預流果に至る方法⇒観冥想


        以上、「悟りの階段」(藤本晃著)から

ブッダの仏教 基礎の基礎?

仏教は、ブッダが説いた教えを実践し、自らも悟りを得て仏となることを目的とした教えです。

仏教が分裂を始める以前、ブッダの死後100年の間に作られた原始仏典が、仏教の源流であろう。


<成道・悟りの過程>

前夜・中夜・後夜の3つの段階
前夜は、人の生と死の繰り返しを観ることができた(天眼通)。
中夜には、自分や衆生の過去性の生涯を知る智慧(宿命智)を体得。
そして後夜、生・老・病・死苦悩は無明という原因から起こって入れうという縁起の理法を得ました。
太陽が昇るころには、苦の原因である無明という迷いを滅する四諦・八正道を覚りました。
こうして、一切が苦であるという一切智を体現します。

<初転法輪>

中道と八正道の教えを説く。

<体系化されたブッダの教え>ブッダはあらゆる精神的・肉体的要素「五蘊」は苦であるという「一切皆苦」を説きました。さらにその解決法を四段階に分けた教え「四諦」を。この苦しみの解決法が道諦に当たる八正道を正しく説きました。苦しみを解決数する八正道を実践するには、物事の真の在り方である三法印(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静)が必要です。先の二つ「諸行無常」・「諸法無我」の真理を知ってこの世を見渡せば、苦しむ理由が何もなくなり、煩悩の消え去った境地「涅槃寂静」が訪れます。

<中道>

中道とは、「適正で中正な行為・歩み・道」という意味です。両極端な快楽主義のどちらにも傾かないバランスのとれた生き方や考え方です。中道とは八正道であります。これが私が悟った「中道」です。

<身体構成する五蘊>

ブッダは人間の体を肉体と精神とに分けて考えました。「色」「受」「想」「行」「識」の5つです。五蘊は無我を知る。「わたしのもの」「わたしである」と独立して成り立つものはひとつとして存在しません。(五蘊無我)

ブッダの言葉に最も近いはじめて造られたパーリ語の「ニカーヤ」
スリランカでは、ブッダの教えが色濃く残っています。

         ~「図解 ブッダの教え」(西東社刊行)~

形而上哲学の超越-毒矢の譬え-

形而上哲学の超越-毒矢の譬え-

哲学青年マールクンヤはブッダに問うた。
「世界は常住であるか無常であるか、時間的に局限されているかいないか、我々および世界は空間的に有限であるか無限であるか、身体と霊魂は一つであるか別々であるか、人間は死後も存在するかしないか。」

これに対し、ブッダは沈黙をもって答えた。
 あるとき、これを不満に思ったマールクンヤは、しびれをきらせてブッダに言った。
「これを最後と思っておたずねします。ぜひともお答えいただきたい」

ブッダはついに答えて言った。
「ある人が毒矢に射られて苦しんでいるとしよう。かれの親友、親族などはかれのために医者を迎えにやるであろう。しかし矢にあたったその当人が、「わたしを射た者が、王族であるか、バラモンであるか、庶民であるか、奴隷であるかを知らない間は、この矢を抜き取ってはならない。またその者の姓や名を知らない間は、抜き取ってはならない・・・・・・・・・」と語ったとする。それでは、この人は、(生きている間に)こういうことを知り得ないから、やがて死んでしまうであろう。それと同様に、もしもある人が「尊師がわたしのために<世界は常住であるか、常住ならざるものであるか>などということについて、いずれか一方に断定して説いてくれない間は、わたしは尊師のもので清らかな行いを実修しないであろう。」と語ったとしよう。しからば、修行を完成した師はそのことを説かれないのであるから、そこでその人は毒がまわって死んでしまうであろう。」
ブッダは続けて言った。
「それ故にここにわたくしがいずれとも断定して説かなかったことは、断定して説かなかったこととして了解せよ。またわたくしが断定して説いたことは、断定して説いたこととして了解せよ。・・・・・・・・・・・・何故にわたくしはこのことをいずれとも断定して説かなかったのか。何となれば、このことは目的にかなわず、清らかな修行の基礎とならず、世俗的なものを厭い離れること、欲情から離れること、煩悩を制し滅すること、心の平安、すぐれた英知、正しい覚り、安らぎのためにならないからである。しからば、わたくしは何を断定して説いたのであるか。「これは苦しみである」「これは苦しみの起こる原因である」「これは苦しみの消滅である」「これは苦しみの消滅に導く道である」ということを、わたくしは断定して説いたのである。何故にわたくしはこのことを断定して説いたのであるか。これは目的にかない、清らかな修行の基礎となり、世俗的なものを厭い離れること、欲情から離れること、煩悩を制し滅すること、心の平安、すぐれた英知、正しい覚り、安らぎのためになるものである。それ故にわたくしはこれを断定して説いたのである。」

マールクンヤ青年のおかげで、このような形而上学を超えるためのブッダの教えを知ることができます。はじめはこの手の難問をどう処理すべきか、ブッダ自身にもわからなかったのでありましょう。そしてブッダのことですから、それを深く深く突き詰めて考えようとしたはずです。それゆえにブッダは沈黙を保って答えなかったのでしょう。そして気づきます。この手の問いは答えの出ぬものであると。なぜならなにかしら答えを出してみても、すぐにそれに対する疑問が生じてしまうからです。この疑問の連鎖は苦しみであります。無限に連鎖しているのですから、たとえ200年かけて考えたところで答えはでません。それまでに死んでしまいます。それよりも、知的欲求を超克して安楽を得るほうが幸福なのです。)
      以上、http://www.geocities.jp/p3ejp/buddha_anecdote.htmlから

いろんな仏教観(その2)

仏教とは読んで字の如く"仏(ほとけ)の教え”です。
では仏(ほとけ)とは何でしょう?

ご存知のように、仏教の開祖は釈迦(しゃか)です。
釈迦はインドのシャカ族の王子でその名をゴーダマ・シッダルタといいましたが、出家し、菩提樹の下でこの世の真理に目覚めました。

釈迦は弟子たちから"釈尊"、"ブッダ"と呼ばれていました。
"ブッダ"とは"目覚めた人、真理(この世の道理)を悟った人"という意味になります。

仏の字は"ブツ"と読みます。もともとはインドの言葉であった"ブッダ"という言葉を漢字に当てはめ、仏陀と書いたのが"ほとけ"の始まりです。


釈迦が悟った真理は永遠不変の真理であるから、釈迦が出現する以前にも"仏(真理を悟った人)"はいるはずであり、また釈迦以後においても仏が出現する可能性があります。

釈迦は仏の一人にすぎず、仏教(仏陀の教え)とは、諸仏の教えなのです。
仏教には「仏陀の教え」と「仏陀になるための教え」という2つの側面があるのです。
つまり仏教は、仏陀の教えを学びそれを実践し、私たち自身も仏になることが期待されます。


では釈迦が悟った真理とは何か?

釈迦が菩提樹の下で悟ったのは「縁起」の理法であったとされます。
釈迦はこの世の真理について次のように分析しました。


諸行無常(しょぎょうむじょう)・・一切の形成されたものは"無常"である。

 この世に形あるある全てのものは、同じ状態を保っているものはない。
 不定であり、たえず変化している。

諸法無我(しょほうむが)  ・・一切の形成されたのものは"無我"である。

 この世に形ある全てのものは、私でもなければ、私のものでもない。実体はない

  ・・・(涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)・・・ここまでが三法印)

一切皆苦(いっさいかいく) ・・一切の形成されたのものは"苦"である。

 この世に形ある全てのものは、望んでも得られない、私の思うようにならない避けられない、苦しみである。
それは"いかなるものごとも独立して存在するのではなく、それぞれの原因と条件が相互に依存しあって存在している"からであり、自然の摂理によるところであると説いたのです。

これを 衆縁和合(しゅえんわごう)="縁起(因縁生起)"といいます。
釈迦は"人生は苦である(生きていくことは苦しみの連続である)"ことの原因は、そのすべてが「縁」によって「起こる」のであることを明らかにしました。・・・十二因縁 (じゅうにいんねん)

一つ一つが実体として存在しているものではなく、すべて縁によってあらわれてくるにすぎないと考えたのです。


この縁起の法が釈迦によって最もわかりやすく説かれたのが
「四諦(したい)」です。


「四諦」とは「苦諦(くたい)」「集諦(じったい)」「滅諦(めったい)」「道諦(どうたい)」の四つ。

「苦諦」とは"苦"に関する真理、人生とは本質的に"苦"であると説く。
第二の「集諦」は"原因"に関する真理で、苦の原因を明らかにする。
第三の「滅諦」は、原因の"消滅"に関する真理で、苦の原因である煩悩の消滅が苦の消滅である、と説く。
そして最後の「道諦」は、"実践(修行)"に関する真理、つまりいかにすれば苦の原因を取り除けるか、を説いています。


釈迦は、絶妙のバランス感覚とも言うべき「中道(ちゅうどう)」を説き、さらに、苦を消滅させるために八つの正しい道「八正道(はっしょうどう)」を教示しています。

一、 正見  (しょうけん・・・正しいものの見方)
二、 正思惟 (しょうしゆい・・・正しい思索)
三、 正語  (しょうご・・・正しい言語活動)
四、 正業  (しょうぎょう・・・正しい身体的行為)
五、 正命  (しょうみょう・・・正しい生活)
六、 正精進 (しょうしょうじん・・・正しい努力)
七、 正念  (しょうねん・・・正しい注意力)
八、 正定  (しょうじょう・・・正しい精神統一)

このような修行を積むことによって煩悩を克服し、その結果として"苦"を克服することができる、というのが釈迦の基本的な教えです


"我ありと執着するところに迷い・苦の根源がある"。

“我思うゆえに我あり(デカルト)”と信じている、我さえもその存在を否定してしまうのだから、その我がもっている「苦」など存在しようがないのです。

これを釈迦は相手の理解力の程度や素質に応じて、臨機応変に説法の内容を変えて説きました。
「対機説法」「応病与薬」と呼ばれるやり方がこれです。


仏教の死後の世界観は基本的にインド人の考えたものです。

古代インド人は現世を六つの世界に分類し全ての世界は苦痛であるとしました。
(天・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄)

そしてこの六つの世界を"六道"と呼び、人はこの六道を生まれ変わり死に変わりして輪廻転生を続ける、つまりわれわれは死後六道のいずれかに再生し、そこで苦しみまた輪廻転生して苦しみを続ける、といった、永遠に苦しみを続けねばならぬ存在であると古代インド人は考えていました。

そこで仏教はこのような輪廻転生の世界から永遠に脱出することを目指したのです。
この輪廻の世界への執着を断ち切って、この世から完全に脱出することを釈迦は教えました。

その脱出を「解脱(げだつ)」と呼び、解脱した状態(そういう世界ではない)を「涅槃(ねはん)」と呼びました。

釈迦は霊魂の有無、死後の世界という経験も論証も不可能な問題は、「無記」(むき・・善とも悪とも記述・説明がつかないこと)として退けたのです。

これは有名な「毒矢の喩え」によって一層明らかになります。

毒矢に射られた人が、矢を射た者はどこの種族か、名前は、弓の種類は、弦(つる)はなんの弦か、矢鏃(やじり)・矢の幹・羽はどんな種類のものから作られたか・・とそれが分からない間は毒矢を抜かずにいるとしたら、彼は毒がその間に体中にまわって死んでしまうだろう。
彼にとっては、毒矢を抜くことが生命を永らえる一大問題なのである。

霊魂の有無・滅不滅の問題を考えるよりも、先決問題であり一大事たる人の生きるべき真実の道を明らかにすべきである、と釈迦は教えたのです。

~総合葬祭青山会館の仏教観~

いろんな仏教観(その1)

~~~~~~佐々木閑氏による『釈迦の仏教』~~~~~~

NHK教育テレビ「100分で名著」で『ブッダ 真理のことば』が放送されました。
その講師、花園大学教授 佐々木閑氏のテキストです。(要約版)

<一口に仏教と言っても幅広い>
仏教は、キリスト教やイスラム教など、他宗教に比べてはるかに多様性の広い宗教
ほとんどのお経は、ブッダが亡くなった後の長い歴史の中で、別の人たち が作ったもの

<釈迦の仏教とは>
釈迦の仏教の最大の特徴は、念仏を称えれば救われるといったような、外の力(神秘的な力)に救いを求める宗教ではなく、「自分の道は自分で開け」という厳しい教え。
救済を求める祈りの宗教ではなく、自分で進む自己鍛錬の道

<悟りへの道=瞑想>
いくら身体を痛めつけても心の安らぎは訪れない。
修行の本質は、肉体を痛めつけることではなく、ただひたすらに精神を集中することにある、という真実に釈迦は気づいた。
事の本質は、肉体ではなく精神にある。そこでひたすら瞑想に入った

<布教>
キリスト教の場合、イエスは最初から「救世主」として登場したが、釈迦はもともと、自分自身の苦しみを解決するために修行を始めたのであり、人助けをしようなどとは考えていなかった。
仏教では、布教が義務化されていない。

<世界観>
一切皆苦
この世は苦しみだらけ。苦しみ以外の何物でもない。
人が生きるということは、苦を背負って日々を過ごすこと。

<因果則>
人の苦しみにはすべて原因がある。この世の出来事はすべて、原因と結果の峻厳な因果関係に基づいて動く。
人は自分の行為に対し、100%その責任を負わねばならない。
この世を動かすのは、因果則以外にはあり得ない。
従って、因果関係を無視してどんなことでもしてくれる超越的な絶対者など存在しない。


<到達した境地>
苦しみの原因は心にある。
この世の苦しみを消すには、自分の心の在り方、ものの見方を変えるしかない
自分を変えることが唯一の救われる道。

諸行無常:この世のすべてのものはうつろう、永遠不滅なものなどない。

諸法無我:この世の一切の事物は自分のものではない。
そもそも、自分自身が自分のものではない。
自己中心的なものの見方を捨てた時、世のありさまの真の姿が見えてくる。
そうすれば、自分がなすべき行動もわかってくる。

涅槃寂静:悟りの境地に至った人には、生死はもはや関係ない。