仏教、浄土真宗を学ぶ jho123's blog

なんてことない!見方を変えれば、楽(幸せ)になれる。そういう視点から、ブッダの説く仏教や親鸞の説く浄土真宗を考えで見たいと!

<いまここ>

 過去に引きずられず
 未来を期待しない
 過去はすでに終わり
 未来はいまだ現れてない
 現在の法(現象)を
 その場その場で観察する
 しかし現在にも実体がないことを知る
 そのように知る人に、成長がある

~~~~~~<いまここ>~~~~~~
今の瞬間を生きる⇒「無常」ということを理解する。⇒具体的な実践方法としては、今やっている行為に「気づく」(サティ)ことです。⇒無明を破ることが心のターニングポイントです。⇒そこで問題は、悟りに至るまでどのように生きればよいか。⇒一つ目は、「道徳の方程式に従って正しく生きることです。」 二つ目は「慈悲です。」⇒最終的には智慧の開発(最勝の生き方)を目指さなければならないのです。つまり因果法則を理解して、心の改革を起こすことです。道徳も慈悲もそこまでの話です。⇒そこで賢者はどうするかといいますと、自分の心を観察して、物に対するアプローチをコントロールするのです。これが仏教でいう解脱の世界、つまり自由の世界です。物に依存することなく、振り回されることもなく、心にある「欲しい」というアプローチを消すこと、これが悟りの境地です。
~~~~~~<いまここ>~~~~~~

    出典;「HOME→根本仏教講義→22.智慧ある人は愉しんで生きる (4)今の瞬間を生きる」

「いまここ」 新たな気づき!

<新たな気づきの発生!>

ブッダの人間観は;「欲望を中核としたもの」であること

ブッダの教えの根本は;「無執着」

仏教の修行の根本(仏道の基本)は;「自己浄化・清浄行」

ブッダの説く清浄行;「妄執(渇愛)の克服・過剰な欲望の克服」

であったことに気づく。



ブッダが一生説き続けた清浄行は、無明・煩悩の浄化でもあります。
つまり、我執・妄執の克服です。
それは、「我あり」から「我無し」への転換でもあります。
「我あり」は欲望充足を基本とするものであります。



「我あり」の欲望充足より

「我無し」のニルバーナ(涅槃、安らぎの境地、生死のわずらいからの解放)へ

生きるとはどういうことか?

生きるとはどういうことか?
(生きるとは? 生きる目的? どのように生きるべきか?)

<生きるとは?>
生命とは、感覚のあるもの、いわゆる感じることができるものが生命であります。
生命は、身体にいろんなものを感じるとエネルギーを新たに作り出します。
生きるとは、エネルギーを置き換えて置き換えて、動いていることです。

感じる⇒エネルギーが生まれる⇒動く⇒苦が発生
生きることは「苦」である。

<参考までに>
例えば、ずっと食べ続ける、ずっと座り続ける、ずっと呼吸を止め続ける⇒ものすごく苦しくなります。すると、食べるのをやめる。立ち上がります。呼吸します。となります。
それで、苦しみから逃げられたわけではありません。新たな苦しみが生まれます。
そのように、我々はエネルギーを置き換え、置き換えで生きています。それが生きることです。
そのエネルギーを変えて、変えています。

いくら変えても楽になりません。幸福になりません。
命は、色・受・想・行・識この5つでできています。この5つの相互依存で成り立っています。これまたいろいろな原因によって生まれては消え、生まれては消えていきます。
だから生命は一個だけでなく複数、いくつかのシステムです。それを組み立てたところで生命ということになります。


<生きる目的?>
仏教から見ると、生きるとは苦の置き換え、置き換えでした。
苦を置き換えることです。
だから目的って成り立ちません。だから、目的はありませんが目的を作ってあげているのです。
そうです、解脱することを生きる目的とすべきです。
残念ながら、生きることには目的はありません。
だったら理性に基づき解脱するべきという目的を作らなければなりません。
目的を作らなければいけないのです。


<どのように生きるべきか?>
逆説的に、命にははっきりした目的があって生きています。
それは苦を避けること、死を避けること、幸福になることです。生きることは苦だからこそ、この目的が自然に起きるのです。
生きることは他の生命との関わりによって成り立っています。

自我は誤作動です。
自我を張らずに他と関わる。 これがうまくいくとムチャ楽しいのです。
(だから、最終結論は慈悲です。)

では、どうすれば、自我を張らず、どうすれば敵を減らし・見方を増やすことができるのか?
それが、お釈迦さまが推薦する「慈悲」です。

目的には、2つあります。
「幸福になりたい」という一般的な目的と「解脱に達したい」という仏教的な目的です。
目的は別ですが、「正しく生きる」という課題は両者にあります。

前者は、幸福になりたいために生命、人間関係を築きます。
後者はエゴ意識をなくし執着をすてるために生命、人間関係を築きます。
どちらも正しい生命、人間関係が欠かせません。

従って、
「慈しみ」は、すべての生命に欠かせない課題となります。

出典 http://www.geocities.jp/dhammini131/index.html

お陰さま

生かされている

 太陽の光
 大気
 海
 大地
 雨
 草木が 生い茂り
 鳥や蝶が 舞う
 「降りだして 田植えいよいよ にぎやかに」(長山秋生)

 天と 地と 水と
 その つながりの中で
 人も 生きている

 受けつがれてきた いのち
 父がいて 母がいて
 生をうけ
 育まれ
 はかり知れない つながり
 無量の縁に 支えられ
 今 ここにいる

 今日もまた たくさんの いのちをいただいて 食事がととのい無事に食べられる
 水も 喉を通っていく
 その お陰で
 今このように 生きている
 いのち 在らしめられている
 食べて飲むことは 生きる源
 ありがたくいただく 毎日の食事
 手を合わせ「いただきます」
 深くご恩を喜び ありがたくいただく 一日一日のいのち
 「お陰さまで ありがとう」
 生きていく
 自分の器量に応じて 精いっぱい生きていく

 生きていく そのままが
 生かされている 私

<ゴーダマの開眼を文字にすると・・・。>

以下「人間釈迦、高橋信次著p157-169」から抜粋。

     意識界(宇宙界、実在界、あの世)、物質界(現象界、地上、この世)


大宇宙は神によってつくられた。
大宇宙が発生する以前の大宇宙は、光明という神の意識だけが、そこにあった。
神は、その意識の中で意志を持たれた。
大宇宙の創造は、神の意志によってはじまった。

意識の働く宇宙(意識界)と、物質界の宇宙の二つを創造した。
意識界の宇宙はその意志を持って物質界の宇宙を動かし、そうしてその二つの世界は、光と影という相関関係を通して、永遠の調和を目的とすることになった。

神の意識は、永遠の調和をめざし、そうして二つの世界にあって調和の要である中道という法秩序の中に住まわれることになった。

人間は、天地創造とともに、神の意識から別れ、神の意志を受け継ぐ万物の霊長として産声を上げた。
人間の誕生は、意識界という実在の宇宙に、まず姿を現した。
そうして、神の意志である調和をめざす神の子として、物質界に降り立った最初の人間を、地上の目で見るならば、大地の一隅に悠然と物質化されたといえるだろう。
人間以外の動物、植物、鉱物も、こうしたプロセスを経て、大地に姿を現した。

こうして、あらゆる生命物質は、実在界(意識界)と現象界(物質界、地上)の間を、輪廻することになった。


地球に生物が住むようになったのは、今から数億年も前である。最初の生物は、太陽の熱・光と大地と、海水と、空気と、それに意識界と表裏一体の宇宙空間の相互作用によって地上に現れた。微生物の誕生である。
続いて植物が発生し、動物が姿を見せ始めた。
やがて爬虫類時代を迎え、一時期、地上は荒涼とした姿に変貌を遂げる。恐竜に時代も下火になった今から約2億年前に、人類は特殊な乗り物に乗って、他の天体から飛来した。
当時に移住者は、かなりの数に上った。

人類は、神の意志にもとづいて、調和という仏国土を造り始めた。
当時の人類は、荒涼たる地上を開墾し、人類が住める環境として神が作られて大地に動物、植物の相互依存のしやすい調和を造ることが目的であった。
人類は栄えた。動物、植物もすくすくと育った。
人々の年齢は、5百歳、千歳の長命を保った。
人類の数は増えていった。子孫が子孫を生み、人々の転生輪廻が、地球という場において、回転をはじめたのである。
人々は次元の異なる意識界と自由に交流できた。
文明は高度に発達した。
人間は自由に空を駆けめぐり、地下にも大都市を造った。

しかし、やがてその文明も終焉を迎える時がやってきた。
人々の間に、自我が生まれ、国境が作られ、争いが始まったからである。
人々の不調和、暗い想念の曇りは偉大な神の光をさえぎった。その結果、大地は怒り、黒雲は天を覆った。いたるところで火山が爆発し、陸は海に、海は陸になった。
ホンの一握りの心ある人々を残して、人類は、土中に。海中に、消えていった。

こうして人類は、栄えては滅び、滅びては栄えた。

天変地異は、人類が住みつくようになってから、何回となく繰り返されてきたものである。
天変地異は、自然現象ではない。この地上で、神が有する創造の機能を、人類が行使し、人類の心と行為が作り出したものである。

人類の地上での目的と使命は、二億年前も現代も変わらない。

それは神の意志である調和という仏国土を建設するために人類は存在し、人々の魂はそうして建設を通して、永遠の進化を目指すものであったのである。


人間は小宇宙を形成している。小宇宙とは大宇宙の縮図である。大宇宙に展開する無数の星々は、人間の肉体を形作っている光の数(細胞数)とほぼ同数である。太陽系は太陽を中心に九つの星々(惑星)と三万数千個の小惑星群を従え、太陽の周囲を循環している。極小の世界(素粒子)も、中心となる核とその周囲に陰外電子がまわっている。太陽系という宇宙も、極小の世界と同じように一つの法則の下に循環し、生かされ、生きている。

人間の肉体は、そうした極小の光が集まって集団を形成し、体をなしている。これらの集団は、脳、心臓、肝臓、膵臓、胃、腸などを形成し、これはこのまま太陽であり、九つの星々(水星、金星、地球、火星、土星など)を意味し、さらには、大宇宙に転嫁する多くの太陽系の、それぞれの個性を持った集団群と同じように作られているのである。

人間は肉体のほかに心(意識、あるいは魂)を持っている。その心は、肉体という衣を通して、物質界、現象界に調和をもたらすことを目的とする半面、大宇宙の心に同通し、それぞれの役割に応じた使命を担っている。生き通しの意識である。(?)
肉体は仮の宿にすぎない。物質と非物質の世界は、交互に循環することによって、調和という運動形態を永遠に持続するためにあり、このため、肉体という物質は時がたてば、物質的形態を変えた世界に戻らなければならないからである。

しかし、人間の意識、心、魂は、物質、非物質に左右されず、永遠に、その姿を変えることはない。
このように人間の意識は、神の意識に通じながら、物質界という現象界と非物質の意識界を循環し、個の意識である魂を持って、生き続けてあるのである。

神の子としての人間が、現象界において
何故に悪をつくり出したか
不幸をどうして生み出したか。

それは肉体の自分が自分であると思うようになり、肉体にまつわる諸々の考え方が、本来、自由自在な心を、肉体の中に閉じ込めてしまったためにほかならない。

全能の神が人間の不幸を予測できないはずなないと誰しも考えよう、不幸を事前に、どうして防げないのかと、では人間の親子がしばしば違った方向にどうしても歩んでしまうのだろう。子供は成人すると親の自由にならない。子は子としての人格と主体性を持っているからである。神と人間もこれと同じで、主体性を持つ人間を自由にはできない。自由に行使できるものは、神の子である人間自身であるからである。

神は調和という中道の中で、厳然と生命の火を燃やしている。人間が、その自由の権能をみだりに使い、中道に反した創造行為をすれば、その分量だけ、反作用を伴うよう仕組んでいるのである。そうすることによって、神と人間の絆が保たれ、調和という永遠の目標に向かうように計画されている。人間の魂が肉体に宿ると五官に振り回される。五官とは眼、耳、鼻、舌、身の五つである。この五官に、魂・意識が幻惑される。美しいものを見るとほしいと思う。気持のよい香りには心が引かれる。自分の都合のよい話には、つい乗ってしまう。舌触りのよい物は食べ過ぎてしまう。苦役より楽な方に身を置きたい。肉体五官はこのように、心を動かしていく。

五官が働かなければ肉体維持は難しくなる。さりとて、五官に心を奪われると欲望が募ってくる。欲望の源は五官に振り回される心の動きにあったわけである。諸々の欲望、争い、不調和、悪の根源は、五官に心を奪われる六根という煩悩にあった。
さまざまな不幸は、肉体にまつわるこうした心の動き、カルパー(業)の想念行為によって生み出されていった。

業は執着である。執着は五官から生じる肉体的想念が、魂に根を張ることによって作り出されていく。地位、名誉、金、情欲、その他さまざまな欲望が、人間の神性仏性を犯していく。

こうして人は、その意識を、あの世と、現象界であるこの世を循環するたびに、その業を修正していく者もあるが、大部分の魂は、新たな業を造って輪廻している。

このために人類は、地上に仏国土を建設する前に、まず己の業を修正していかなければならなくなった。

同時に、さまざまな執着を生みだしてきたがために、神性の自分から次第に遠のいていたのである。

しかし、人間の魂から神性仏性を捨て去ることはできない。他の動物、植物は、その地上の環境を維持するための媒体物であって、人間はそれらの媒体物を調和していく任を神から与えられ、任されているからである。

その証拠に。己の心に偽りの証を立てることはできない。人には嘘は言えても、自分には、嘘は言えない。文明文化は、人間の社会のみにあって、動物、植物の世界にはない。人間はどこまでいっても人間である。動物、植物もそれぞれの個性に従って転生を輪廻し、進化を続けるものである。しかし、彼らが人間になることはできない。人間も彼らにかわることはない。水が土になることができないのと同じである。

人間が神の子を自覚し、業を修正し、本来の神性に戻るためには、神の心に触れなければならない。神性の我に還るとは、苦界の自分から離れる事である。生老病死のとらわれから脱皮することである。

神の心は中道という調和の大宇宙に流れており、その流れに自分の魂が触れるよう努力を惜しんではならない。
一日は昼があって夜がある。決して一方に偏することがない。どんなに人類が増えても、空気、水の質量は変わらない。太陽の熱、光についても、その放射する質量を変えることがない。人間社会には男と女が存在する。男女の比は常に一定に保たれている。戦争、災害など人々の心が自己保存、我欲に傾かない限り、男女の比は均等に維持される。人間の肉体も、休息と運動という循環から切り離せない。夜も眠らず仕事を続ければ、肉体的支障が現われ、精神の平衡を失ってくる。

すべての生命、物質は、このように、中道から離れては保たれないようにできている。悲しみや苦しみは、こうした中道から離れた想念行為があるからである。

中道の心は、毎日の生活行為に対して、反省し、反省したことを実践することから得られる。実践には努力が伴う。勇気がいる。知恵を働かせれば、業の修正は意外に早まるだろう。
反省の尺度は、八つの規範が元である。「正見」「正思」「正語」「正業」「正命」「正進」「正念」「正定」である。(ヴィッパサナー瞑想の実践は正念に当たる。)
人の心は、こうした規範を尺度として、毎日の生活行為の中で、正しく修正されていく。

人間の魂は、生き通しの意識である。肉体は時がたてば、脱ぎ捨てなければならない。中道の心に触れると、こうした摂理が明らかになり、神の意識である永遠の安らぎを保つことができよう。
意識が拡大すると、宇宙を形どっている太陽をはじめとした星々(惑星群)が、すべて自己の意識の中で回転し、そうしてその中で呼吸する一切の生物は、わが肉体の一部であることに気づく。

人は宇宙大の意識を持って生活している。肉体にその意識が小さく固まり、とどまるために、宇宙大の自己を見失ってしまうのだ。
小さな人間になっても、神は、人間の生存に必要な環境を与えている。もだえ、迷い、地獄に身を焼く人間に対しても、神は、辛抱強く、救いの手を差し伸べている。太陽を与え、水を与え、空気を与え、土地を与え、食べ物を与えている。わが子の行く末を案じぬ親がないのと同じように、神は人間に、無限の慈悲を与えている。

人間は、その慈悲に応えなければならない。応えることによって、人間は神性の己を自覚するのだ。

神は平等を旨としている。その証拠に、太陽の熱、光はあまねく万生物平等に照らし続けている。差別することがない。人間社会に階級が生まれ、貧富が生じ、競争意識に心が翻弄されることは、神の意に反する。能力の別、力の相違、得手不得手は、すべて努力の所産であるが、しかしだからといって、神の子の人間に、上下の差別を造る理由にならない。
人にはそれぞれ太陽系の姿と同じように、役割がある。人間の五体にも胴があり、手足があり、頭がある。それぞれがその役割に応じた務めを果たすことによって、太陽系が保たれ、五体が満足に動いていく。

中道に徹することは、己を知る、もっとも早い方法なのである。

人類の歴史は、己を知ることよりも、我欲を満たすための歴史であった。闘争と破壊は、そのために繰り返された。己を知り、人間の目的を悟れば、現象界の小さな自分に、心を奪われることがなくなる。
人々は苦界から逃れようと、さまざまな信仰を持っている。肉体を痛め、苦行を積めば救われる。自己が発見できるとしており、また拝めば功徳がある。祈れば安穏の生活ができると信じている。大きな間違いである。苦行は、肉体に心を縛り、祈ればよいとする他力は、人間の神性を失わせる。いずれも偏った信仰である。

中道の神理は、神を通じた嘘のつけない己の心を信じ、八正道という生活行為をなしていくところにある。晋の安心は、自己満足や逃避ではない。自分の生死を見られる自分が確立できてこそ、安心というものが得られる。
人間は神の子である。神は天地を創造された。人間もまた己の天地を調和させ、自己の置かれた環境を調和していくものである。神から与えられたその肉体を痛めることでも、あなた任せの他力に自己満足するものでもない。

世はまさに末法である。
正法という中道の神理を失い、人類は迷いの中に埋没している。

この迷いから人々を救うには、正法という法灯を点じ、大自然の慈悲に、目覚めさせねばならない。

法は慈悲と愛を喚起する力である。
神は無限の慈悲とその力を持って、正法を信ずる者のいく手に、光明の道を拓いてくれよう。

ブッダの仏教への理解が進んだようだ!

ヴィッパサナー瞑想は、「心の動きを知り、自分の心と向き合うことによって、自分自身を観察し、物事を正しく見るためにある。」が、「四諦の教えを知り、八正道の実践をやりやすくする最良の方法」ということも言えると書かれている。(日本テーラワーダ仏教協会のサイトにて) 

後半の「」の部分が理解できなかった。



「ヴィッパサナー瞑想は「四念処」であり、八正道の中の「正念」であるという解説」に出会うことで理解への道は開けた。

さらに、「ゴーダマの悟りへの道程」(人間釈迦、高橋信次著p93から190)を読み砕くことで、特に、「ゴーダマの悟りを文字にすると・・・」(人間釈迦、高橋信次著p157-169)を再読することで、よく分ったようだ。


<参考までに>
人類は、中道の神理を失い、迷いの中にある。⇒目覚めさせねばならない。⇒目覚めには(心の安らぎを求めるなら)、生活の中で、八正道という中道の心を目標にした実践行為が肝要である。まさに、八正道中「正念」の実践が、「ヴィッパサナー冥想の実践」そのものであった。

日本の宗教史 大転換期があった・・・?

大転換期が、鎌倉時代にあった。

「仏教伝来(6世紀)から鎌倉仏教」と「鎌倉仏教から昭和の仏教」


 平安時代中頃から鎌倉時代初めにかけて、災害が多発しました。また、貴族社会から武家社会へと移行し度重なる戦乱も起きるようになり、社会不安が大きくなりました。

仏教には、お釈迦様の死後にどんどん仏教が廃れていく末法思想(まっぽうしそう)というものがあります。
このような社会不安が高まるにつれて、即身成仏のような現世での成仏や救いを諦め、 来世に極楽に往生して成仏する浄土思想が普及していきました。



 鎌倉時代に入ると、中心が京都から鎌倉に移り、地方が発展していきます。また、武家階級が誕生し新しい勢力が交流しました。
このような社会の変動に応じて、仏教界でも新しい動きが生じます。


そこには二つの方向性が見られます。
一つは、原点に回帰し戒律の復興と禅の実践を求める方向です。
二つは、旧来の仏教と袂を分かち新しい仏教を模索する方法です。



一つめの方向は、宋の影響を受け南都での戒律復興運動や臨済宗と曹洞宗禅宗の興隆につながりました。
二つめの方向は、法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗や日蓮日蓮宗の開宗へとつながりました。