仏教、浄土真宗を学ぶ jho123's blog

なんてことない!見方を変えれば、楽(幸せ)になれる。そういう視点から、ブッダの説く仏教や親鸞の説く浄土真宗を考えで見たいと!

ima、読書中です。  「ブッダの人と思想」

第6章 一切にわがものなし

なぜ人間は苦しむのでしょう?⇒それはすべて常ならざるもの、無常であるからです。
それを別の角度からみると、我ならざるもの(非我)を我(アートマン)と見なすところから起きる。とブッダは説きます。

ブッダの時代には、「非我」も「無我」も一体として説かれた。「梵我一如の哲学」です。

自己にあらざるものを自己の所有と見なすこと。
自己に常住不変の実体があるとみなすこと。
自己の本質というものがあるとみること、これらを否定することが非我の内容である。(サンユッタ・ニカーヤ)


ブッダは、無所有を楽しんでいます。
“わがもの“という概念を離れることを強調してます。(サンユッタ・ニカーヤ、スッタニパータ777,951,971)


なぜ、無所有が説かれたのでしょうか?

人間は、自己の生存欲を中核として自己意識を構築し、それによって自己流の世界像を造出します。
この世界像の中に住んでいる者は、利己的で排他的な自己であります。
この自己を我執の自己といい、孤独な自己といいます。
ブッダは、この自己を排除することを求めます。
その一つが所有欲の排除で、所有欲は人間の最も深い本質的な執着です。これから解放されるには、とても大きな努力が必要です。(スッタニパータ805-806)

所有欲とともに、身体への執着があります。(サンユッタ・ニカーヤ、スタニパータ772)


仏教はあくまで苦の克服を目指す実践哲学です。苦の克服には、執着の死滅を説きます。
解脱を求めるものはその死滅を目指さなければならない。


非我とはなんでしょうか?
身体と精神の5つの要素(色・受・想・行・識)が仮に集まって自己存在を形成するわけで、自己とはあくまで仮構されたものであるとみます。
仮構されたものには実体はありません。
また5つの要素にも実体があるとはいえません。
つまりすべて「非我」であります。(テーラガーター1160、サンユッタ・ニカーヤ)


ブッダの悟りの瞬間に何が起こったか?
悟りの大爆発があった。
その時、ブッダの人格の中核が打ち砕かれて天地宇宙と素通しになりました、自我が打ち砕かれたから、自我によって仮構された世界像も打ち砕かれた。
ここに、ありのままの世界が顕わになります。
有無の分別を超えた世界が顕わになり、自己も他者もありません。

この体験を言葉にすると「わがものにあらず、われにあらず、わが本質にあらず」


真の自己とは、自己についての説法 無我説の真意であり、内容。
つまり、我執の中核をくだいてみていくと、当然人間の変容を体験することになります。
すると、いままで「自己だ、自己だ」と思っていたものが、仮にすぎないとわかってきます。(サンユッタ・ニカーヤ、ダンマバダ166、アングッタラ・ニカーヤ)


無我を実現するにはどうしたらいいか?
自己浄化の道であり、自己制御の道であります。
常に禅定に入って心を浄める努力が第一です。自己を護り、自己をつつしんで清浄行を実践し続ける。
これが無我実現の道であります。(スッタニバータ216、ダンマパダ369,103、160)