仏教、浄土真宗を学ぶ jho123's blog

なんてことない!見方を変えれば、楽(幸せ)になれる。そういう視点から、ブッダの説く仏教や親鸞の説く浄土真宗を考えで見たいと!

ブッダの瞑想法

ヴィパッサナー瞑想

アルボムッレ・スマナサーラ(Alubomulle Sumanasara 1945年-)は、現在日本で活動しているスリランカの上座部仏教テーラワーダ仏教)の僧侶であり、スリランカ上座仏教シャム派の日本大サンガ主任長老である。日本において上座部仏教の教義、およびヴィパッサナー瞑想を普及させる活動を行っている。
ヴィパッサナー瞑想(ヴィパッサナーめいそう)は、上座部仏教などの観行瞑想のこと。



ヴィパッサナー(パーリvipassanā、サンスクリットvipaśyanā、古語「毘鉢舎那」)は仏教における「観」(現代中国語「内観」)のパーリ語の発音。よって、ヴィパッサナー瞑想とわざわざ呼ぶ場合は上座部仏教の観行瞑想を指し、またそれを現代風にアレンジした瞑想方法のことも指す。

仏教において瞑想(漢訳「止観」)を、サマタ瞑想(止行)と、ヴィパッサナー瞑想(観行)とに分ける見方がある。前者が心を静めることを中心とし、仏教以前にもインドにおいて広く行なわれてきた瞑想方法であるのに対し、後者では観察することを中心とし、釈迦が新しく開拓しそれによって悟りを開いた仏教独自の瞑想方法とされる。

ヴィパッサナーとは「よく観る」「物事をあるがままに見る」という意味である。一般に仏教においては、集中力を育てるサマタ瞑想と、物事をあるがままに観察するヴィパッサナー瞑想とが双修され、この点は南伝仏教でも北伝仏教でも変わらない。
伝統的に上座部仏教においては、サマタ瞑想を先に修行して、それからヴィパッサナー瞑想へと進むという階梯がとられてきた。ヴィパッサナー瞑想を行なうためには少なくとも第一禅定(最高で第四禅定)に入っている必要があるとされ、そのためにはサマタ瞑想を行なわねばならないのである。また北伝の大乗仏教においては、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の双方を同時に修養していくことが重要視されてきた。

これに対し、最初からヴィパッサナー瞑想のみを中心に修行するという道も、少数派ながら古くから存在した。これは、ヴィパッサナー瞑想を行うことによって、自然に第一禅定がもたらされるという事実に基づいている。またより重要な問題点として、サマタ瞑想にあまり重点を置きすぎると、それによってもたらされる三昧の快楽に耽ってしまいがちであり、なかなか悟りが開けないという点も指摘される。ブッダの悟りはサマタ瞑想ではなくあくまでもヴィパッサナー瞑想によって開かれたのである。

現代では、在家信者のためにより簡便な瞑想のプログラムが組まれる必要が生じてきた。時間がかかるサマタ瞑想の修行を省略し、最初からヴィパッサナー瞑想のみを修行していく方法がレディ・サヤド、ウ・バ・キン、S.N.ゴエンカや、マハシ・サヤドら複数の僧侶や修行者によって組織化された。これが現代において「ヴィパッサナー瞑想」と称される瞑想方法であり、ミャンマーを中心としたスリランカやタイなどの上座部仏教圏だけでなく、欧米にも紹介されている。

瞑想の方法としては、さまざまな流儀のものが存在するが、共通するのは「今という瞬間に完全に注意を集中する」ということである。何をしていても「今・ここの自分」に気づいていく。この「気づき」(サティ、sati、梵smṛti、英語mindfulness、漢語「念」)が、この瞑想のもっとも大切な技術である(したがって、「気づきの瞑想」とも呼ばれることがある)。このようにして

自分を客観的によく観ていく実践によって、心を成長させることを目指すのである。
また、特にマハシ系では、「気づき」を言葉によって確認(「ラベリング」)し、「実況中継」していくという方法がとられる。

ヴィパッサナー瞑想に入る前に、「慈悲の瞑想」がサマタ瞑想として行なわれる。

ゴエンカ系ではヴィパッサナーに入る前段階として、集中力(定)を養うことを目的に、「アーナパーナサティ」(安般念)と呼ばれるサマタ瞑想の一つをまず練習する。「アーナパーナサティ」(安般念)を重視する思想はパオ系においても同じである。これら二派においては、マハシ系の言葉による「ラベリング」は行われない。

座る瞑想では特に呼吸に集中することが基本となる。この点は、北伝仏教でも広く用いられる「数息観」と大きな違いはないとも言えるが、数息観とは、あくまで「アーナーパーナサティ」(安般念)の一部であって、二つを同一視することはできない。呼吸に集中することに関しては、南伝仏教の教義の枠内においても、「サマタ瞑想」と大きく区別されるわけではないという点が指摘されている。