仏教、浄土真宗を学ぶ jho123's blog

なんてことない!見方を変えれば、楽(幸せ)になれる。そういう視点から、ブッダの説く仏教や親鸞の説く浄土真宗を考えで見たいと!

今、現在の読書メモ(2/2)

つづきです。

釈迦の教えをお経にしたいとの弟子の提案に、死を予言した釈迦のだした2つの注文

「口語で、いまのように語って伝えなさい」

「私は君たちに教えをつたえることによって、悟りの世界を指差している。しかし、お経をどんなに残しても、それは私の指しか見ていないことになる。私の指ではなく、私の指差すところを見なさい。それが悟りの世界だ。」

ところが、
いつの間にか仏教は、こうした釈迦の意図を離れてしまいました。

経典は口語でなくサンスクリット語で現代に伝えられ、釈迦の指差すところを見るのではなく、指そのもののどれがいいかを競い、例えば、どのお経典がより優れているかを論争したり、単にお経を唱える宗教に代わってしましました。


どうして、そのようなことが起きたのでしょうか?

その原因は、大乗仏教の起こりを見るとわかります。
一つは、釈迦の教えを、サンスクリット語で記述するところから始めてしまったこと。
また、「体感」という概念が消えてしまった。簡単にいえば、仏教の基本である瞑想の部分が無くなってしまったのです。


日本へ伝わった仏教は、中国経由の仏教です。

中国で「経」になったとたんに、釈迦の教えは「タオの書」に変わってしまいました。

このように、中国から日本に入った仏教は道教化さえた仏教と儒教が混じりあわさったものになったのです。

オリジナルな釈迦の仏教は、チベット仏教であります。

しかし、チベット仏教の半分は、つまり密教の部分は、正統な仏教ではありません。密教の部分とは、バラモン教もしくはもともとチベットにあったボン教に由来するものです。

このように考えると、日本の仏教は仏教の埒外に或り、オリジナルな仏教と接点はありません。


日本の仏教は、中国で生まれた儒教・道教化された仏教です。そのためいくつものオリジナルにない概念が混入してます。

その一つが浄土でしょう。

仏教では娑婆と涅槃だけです、浄土とはその中間的な場所です。浄土には阿弥陀という如来がいることになっています。

仏教の本質は、「空」ですから、涅槃というのは空を悟った人がいる世界であり、場所のことではないわけです。ただ、宗教が組織化していくさいに、誰もが生きやすい浄土という概念は大変便利です。それを日本では、平安時代に法然が浄土宗として体系化します。


法然は、
枕元に仏像や仏画が無くても「南無阿弥陀仏」と口で仏さんの名前を唱えると阿弥陀さんが浄土で待っていますよ、と教えました。


弟子の親鸞の論理は、一味違います。
親鸞が展開したのは、阿弥陀仏の本願から出発した考えです。
親鸞は阿弥陀仏が無条件に受け入れてくれるということを教えました。