仏教、浄土真宗を学ぶ jho123's blog

なんてことない!見方を変えれば、楽(幸せ)になれる。そういう視点から、ブッダの説く仏教や親鸞の説く浄土真宗を考えで見たいと!

今、現在の読書メモ(1/2)

東洋思想が興味深いのは、アートマンをめぐる違いはあれ、そもそも宇宙とは情報空間であるという大前提に立って深耕された思想という点です。

アプリオリ性を徹底的に否定し、神がいないとする宗教は仏教だけです。

あの世について語ること、その前に未来につて語ること、それはすべて妄想だから、目の前にあるやるべきことをやりなさいという意味でしょう。


なぜ、日本の仏教は釈迦の教えと接点がないのか?

中国経由の仏教だから。
中国から日本に入った仏教は道教化さえた仏教と儒教が混じりあわさったものになったのです。釈迦は、不完全性定理を主張したようなものです。


なぜ、阿弥陀仏と唱えるのか?

日本の仏教は、中国で生まれた儒教・道教化された仏教です。そのためいくつものオリジナルにない概念が混入してます。浄土という概念がそうです。

宗教が組織化していくさいに、誰もが生きやすい浄土という概念は大変便利です。それを日本では、
平安時代に法然が浄土宗として体系化します。

法然は、枕元に仏像や仏画が無くても「南無阿弥陀仏」と口で仏さんの名前を唱えると阿弥陀さんが浄土で待っていますよ、と教えました。


なぜ、オリジナルの仏教にない「浄土」が生まれたのか?

日本の仏教は、中国で生まれた儒教・道教化された仏教です。そのためいくつものオリジナルにない概念が混入してます。

仏教では娑婆と涅槃だけです、浄土とはその中間的な場所です。浄土には阿弥陀という如来がいることになっています。

仏教の本質は、「空」ですから、涅槃というのは空を悟った人がいる世界であり、場所のことではないわけです。ただ、宗教が組織化してくさいに、誰もが生きやすい浄土という概念は大変便利です。それを日本では、平安時代に法然が浄土宗として体系化します。


人間は根源的に信仰心をもっています。

信仰心が、完全情である神と接するための社会システムとして発展した。
人間が信仰心を抱く理由①自分が不完全な情報システムであるということを自覚するから、完全情報を求める心がつながる。完全情報を求める心が信仰の念を強め信仰心を抱く。

人間が信仰心を抱く理由②シャーマニズムに見られる信仰心の醸成
人間が信仰心を抱く理由③死への恐怖
これら3つが複合的に合わさって、信仰心が生まれる。)

⇒社会システムとして発展することで、権力が生まれ、統治や支配の力関係が動き始める。

⇒そして国家が生まれた。
つまり、現代のおける世界の秩序、すなわち高度に発達した政治システム、経済システム、そして社会システムのすべては、人間の信仰心や宗教が大前提となって構築されてきたものである。ということです。


歴史とは、常に勝者が書き残した記録です。


資本主義もマルクス主義も宗教現象です。
なぜなら、資本主義とはお金という完全情報に対して憧れを抱き、そこに普遍の価値を見出す脳内現象だからです。
逆に、マルクス主義は、労働こそ唯一絶対の価値であると信仰する宗教現象です。


東洋世界でのバラモン教と釈迦の差は、たった一つしかありません。

それが
アートマン(自我)

が実在するのかしないのかという点のみです。
東洋思想が興味深いのは、アートマンをめぐる違いはあれ、そもそも宇宙とは情報空間であるという大前提に立って深耕された思想という点です。

神の存在を語る上で、この2つの発見は非常に重大です。物理学における不確定性原理と数学における不完全制手定理の大発見です。

1991年、神が正式に死んだ年(グリムの定理が発表される。)、グリルの定理を覆すには、ゲーデルとチャイテインの定理の間違いを証明しなければならないが、それは不可能です。
それのできる哲学者や宗教学者はいません。


言ってみれば、釈迦は、不完全性定理を主張したようなものです。

部分情報である人間に、なぜ完全情報のことがわかるのか?わかるわけありません。
神を必要とする理由の一つは、部分情報である人間が完全情報に憧れることです。そこで、釈迦が「完全情報はこの世にありません」と言えば、憧れは消えてしまいます。すると、人間は、幻想から徹底的に解放されます。それを釈迦は「未来も幻想、過去も幻想」と教えたのです。



「毒矢の例え」です。


阿含経典は、つぎのような釈迦の教えを伝えています。

「毒矢が飛んできて身体に刺さり、毒がまわりだしました。
その時に、人間が考えることには、いろいろなものがあります。
例えば、毒矢はどこからと飛んできただろうか。あるいは、その毒はどんな毒だろうか。さらに。誰の仕業だろうか、などです。
毒矢が刺さったことで、いろいろ考え悩むことは増えたでしょうが、その前にやるべきことがあるはずです。それは、まず矢を抜きなさい、ということです。」

これが釈迦の教えです。

つまり、あの世について語ること、その前に未来につて語ること、それはすべて妄想だから、目の前にあるやるべきことをやりなさいという意味でしょう。

アプリオリ性を徹底的に否定し、神がいないとする宗教は仏教だけです。