仏教、浄土真宗を学ぶ jho123's blog

なんてことない!見方を変えれば、楽(幸せ)になれる。そういう視点から、ブッダの説く仏教や親鸞の説く浄土真宗を考えで見たいと!

2年前の読書メモ・・・。(2/2)

つづきです。

<21世紀を>

21世紀(神の存在が否定された世紀)を、
人間の命や生きることの満足感(基本的人権)を犠牲にしない世界にしよう。
それを実現するために、地域ごとの多様な価値観と尺度を盛ることのできる器に世界にしよう。


そのことと同義なのが、下記のフレーズです。

「私たちは、神は正式に死んだという事実の前に立っています。


釈迦が教えた「空」の概念を、いまこそ改めて認識しなおし、長いこと人間にまとわりついて来た迷信から解き放たれなければなりません」


21世紀は、宗教に頼らなくてもいい幸福な生き方を求めよう!

神は死んだ!

宗教は、本質的にはこの21世紀には不要なものです。
「ところが、世界はいまだに暗黒時代であり、特に日本は、いまなお平安時代の闇が支配しているようなものです。そのため、国家の繁栄や世界の経済システムの維持発展というありもしない価値のために、人々は争い、人間不信は広がり権力者による収奪は続き戦争もたえません。」

人間が歩んできたある種の“宗教的な退化のプロセス”=「利益教」「利益崇拝」の盲信の蔓延→

「利益教」からの脱洗脳が必要!


現代における世界の秩序(政治システム・経済システム・総ての社会システム)は、人間の信仰心や宗教が大前提となって構築された。

<宗教家にこころから悪い人はいない。でも権力者に極悪人がいる>

釈迦の教え「毒矢のたとえ」

<神を否定した釈迦が生み出した仏教、神がいないとする宗教は仏教だけ>


著者の「わたしなら、こうする」

①最低でも生存権と機会の均等を保障する世界を!
 ●世界では、飢餓、戦争で生存権は保証されていない。
 ●2世議員と差別で機会の均等の保証はない。

②納税のシステムはいらない

③国会議員と公務員は無給

④準備預金制度の撤廃・禁止

 利子を亡くしてお金が勝手に増えていく仕組みをなくす。(お金がお金を生むシステムをなくす。)

⑤国家をやめて、地域自治

どう思いますか?


釈迦の教えに「毒矢の例え」があります。

「毒矢のたとえ」とは、

釈尊は、具体的な生き方を説いた人であった。
真理を理論だけで理解しようとしても苦を乗り越えて生きることは出来ない。釈尊のこうした考え方を示すものに毒矢の例えがある。

マールンクヤと言う若い弟子がいた。かなり理屈っぽい人だったようだ。彼は 「いろいろ考えたが世の中には解からない事が沢山ある。わかるものならばそれをはっきり解からせて欲しい。それがはっきりしない限り私はこれ以上修行が出来ない。」と言い次のような質問をした。 「世の中は常住なるものか それとも無常なるものか  世界に果てがあるのかないのか 霊魂と身体は同一か同一でないのか 死後の世界は存在するのかしないのか 」と言ったような問題に悩み釈尊に解答を迫ったと言う。「釈尊が世界が常住であると思うならそうおっしゃってください。それに応じて修行します。世界は常住でない 無常なものだと思うならそうおっしゃってください それに応じて修行いたします。」

それに対して釈尊はおおよそ次のようなことを言ったとされる。

「ある人が毒矢に射られたとする。 すぐに治療しなければならないだろう。ところが医者にかかる前に 一体この毒矢を射た人は誰か どんな名前の人か 身長は どんな顔の人で どこに住んでいた人か どんな弓で射たもので どんな矢じりがついていたのかと言ったような理論を追求していたら 結局 死んでしまうだろう。」 「それとおなじで世の中は有限か無限か 霊魂と身体は同一か そうでないか人間は死後も存在しているのか そのような問題に答えたところで私達の苦なる人生の解決にはならない。そのようなことがはっきりしたら修行すると言うのは正しくない。 世の中が常住か 常住でないかについて見解を持ったところで 私たちの老死 憂い 苦痛 嘆き 悩み 悶えは依然としてここにある。 私はいま 現実のこれらの老死 苦を超えることを説くのだ。 悟りに達すればそのようなことは気にならなくなるであろう。」(中部経典第63経)


「なぜ、脳は神を創ったのか?」苫米地英人著との出会いにより、「毒矢のたとえ」知りました。

 著者の解釈では、
「あの世について語ること、その前に未来について語ること、それはすべて妄想だから、目の前にあるべきことをやりなさい」ということのようです。

小林正観さんの言う
「念」
念という字を分解すると「今の心」となります。
「今、目の前にあるモノ、コト、ヒトを大事にするこころ」です。
と同じですね。
<目の前にあるやるべきことをやりなさい。>(出典;苫米地秀人著)


参考;毒矢のたとえ

阿含経典は、つぎのような釈迦の教えを伝えています。

「毒矢が飛んできて身体に刺さり、毒がまわりだしました。
その時に、人間が考えることには、いろいろなものがあります。
例えば、毒矢はどこからと飛んできただろうか。あるいは、その毒はどんな毒だろうか。さらに。誰の仕業だろうか、などです。

毒矢が刺さったことで、いろいろ考え悩むことは増えたでしょうが、その前にやるべきことがあるはずです。それは、まず矢を抜きなさい、ということです。」

これが釈迦の教えです。

つまり、あの世について語ること、その前に未来につて語ること、それはすべて妄想だから、目の前にあるやるべきことをやりなさいという意味でしょう。(苫米地秀人著「なぜ、脳は神を創ったのか」p152)