仏教、浄土真宗を学ぶ jho123's blog

なんてことない!見方を変えれば、楽(幸せ)になれる。そういう視点から、ブッダの説く仏教や親鸞の説く浄土真宗を考えで見たいと!

コースタニヤへの説法(p231)

 釈迦は語っています。

みなさん!
心と行いを中道に定め、正しく生活するようにしなければいけないようです。

私たちは偏りすぎた生活をしています。
あなたの近所にあるガジュマルの木を見てください。幹が太ければ、その根も広く張っているはず。枝は幹から出、小枝は枝を足場に、緑の葉を繁茂させています。もしも、枝が幹より太く、幹よりも根が小さければどうなるか。葉が小枝より重ければ小枝は折れてしまう。根と幹、幹と枝、枝と小枝が調和されているから、ガジュマルの木は風雨にさらされても安定している。根を張った幹と枝葉は、中道の心を教えている。

人の道もこれとおなじだ。
心という根を忘れ、法という根を失って、五官という煩悩に振り回されるから、正しい人生を送ることができない。

みなさん、三線の糸を強く締めたらどうなるか、また弱いとどんな音色になるのか知っているか。
強く締めれば切れ、弱くては調和された音色はでません。

その通りだ。
ではどうすればよいのだ。

中ほどに締めれば調和した音色が出ます。
その通りだ。
人生も同じだ。

三線の糸のように強ければ切れてしまうものだ、激しい肉体行は、かえって煩悩を作り、一つ間違えば肉体舟はおろか、心は執着の権化に変わってしまう。
肉体は人生の乗り舟にしか過ぎない。
その舟頭さんである心こそ永遠に変わることのないホントの自分自身であるということを忘れ、肉体舟の五官だけに翻弄されて、本当の自分を忘れているようです。
丸い心の自分を忘れると、うらみ、ねたみ、そしり、怒り、欲望の渦の中に入り、本当の自分を見つけだすことができません。
しかし、それがわかれば、苦しみは自分の心と行為が作り出していたと気づくのです。

生まれたことによって病気をし、老いて、死んでいく。人生は苦しみといってもいい。
人間がこの苦しみから解脱するには、心と行いについて、この両極の生活から離れ、
中道の道を納めることが最も大事
なのです。


<原文(高橋信次著「人間・釈迦」第1部より)>
「コースタニヤ、そなたは私の話が聞こえるであろう。私の顔を見るがよい。私はついにブッダになった。悟りを開き、シュパラーになることができた。そなたたちの修行は極端である。煩悩を滅しようとして肉体行をしているが、肉体行は肉体の執着を反対につけてしまい、ますます己を見失ってしまう。」
「コースタニヤよ、私の顔を見て話しなさい。いままでのシュパラーではない。おまえは先ほど,アサジたちにも、ゴーダマがきた、一人の修行が怖くて、私たちのところへ訪ねてきたぞ、といい、だれも相手にするな。我々はカピラのクシャトリアではない、と言っていた。師でもなく、王子でもない。ゴーダマの身の周りなぞ、決してみてはならぬ、とな・・・。バッティーヤーその通りだろう。」
「私はシェパラーだ。おまえの心の中も、ミガダヤに来た道順も、すべてわかってるのだ。別の場所で修業しよう。シェパラーになるのだ、ということをウルブェラでいっていたが、今のそなたの心の中は、大きな疑問が立ちはだかり、行き詰っている。悟っていれば、おまえは私の心の中がわかるはずだ。どうだ、コースタニヤ。おまえの顔には安らぎがない。心が不安に満ちているからだ。なぜだろう・・・・」

~中略~

「コースタニヤよ、芸姑の奏でる弦の糸を強く締めたらどうなるか、また弱いとどんな音色になるのか知っているか。強く締めれば切れ、弱くては調和された音色はでません。その通りだ。ではどうすればよいのだ。中ほどに締めれば調和した音色が出ます。その通りだ。人生も同じだ。弦の糸のように強ければ切れてしまうものだ、激しい肉体行は、かえって煩悩を作り、一つ間違えば肉体舟はおろか、心は執着の権化に変わってしまう。肉体は人生の乗り舟にしか過ぎない。その舟頭さんである心こそ永遠に変わることのないホントの自分自身であるということを忘れ、肉体舟の五官だけに翻弄されて、本当の自分を忘れていたのだ。丸い心の自分を忘れると、うらみ、ねたみ、そしり、怒り、欲望の渦の中に入り、本当の自分を見つけだすことができない。しかしそれがわかれば、苦しみは自分の心と行為が作り出していたと気づくのだ。生まれたことによって病気をし、老いて、死んでいく。人生は苦しみといってもいい。人間がこの苦しみから解脱するには、心と行いについて、この両極の生活から離れ、中道の道を納めることが最も大事なのだ。心を忘れた厳しい肉体行によって煩悩を捨て去ることは、非常に難しい。肉体船の五官は、客観的にあらゆる現象をとらえるが、判断は自らの心がする。通常はその判断が、諸現象にとらわれる。このために、思うこと、行うことが、心を忘れた現象となって生み出されてゆく。自分に都合が悪ければ、他人に平気でうそをつく、表面をつくろい、自己保存に明け暮れれてしまう。自分の心は自分に忠実だ。自分の心に自分は嘘がつけない。この事実は何人も否定できないし、人間が善なる神の子の証でもあるのだ。生まれた時、人間は丸い豊かな心だったが、生まれた環境、思想、習慣を経るに従い、丸い心にゆがみを作り出してしまう。」